私が小さかった頃、祖父が竹を片手に柿をこれで獲るぞと小刀を出しリズムよく竹の先端を削ぎYの字になるよう切れ目を入れて渡してくれた。どうやって獲るんだと尋ねたら柿のヘタに作ったYの字を挟んでくるっと回せばヘタが取れるからやってみなさいと、言い祖父は手際よく柿を収穫し始めた。わたしも見習って柿をめがけて竹を伸ばすが、ふらふらと先端が定まらない。
眉間に皺を寄せやっとの思いでヘタにかかり外れないよう慎重に竹を回すと柿が獲れた。祖父が「よぉ獲れた」とくしゃっとした顔で褒めてくれた。祖父はひとりでできるよう見守ってくれていたのだ。私がなんでもやってみたくなるのは、こういった体験を小さな頃から見守られてやってきたことの積み重ねなのだろうと大人になって感じる。
大人になった今、畑にあった柿の木は寿命とともに伐採され柿の木と共に過ごした栗の木がある。祖父がいなくなり今では祖父母の代わりに父と母が栗の収穫を毎年しており、わたしも少しだけ収穫を一緒にした時があった。栗の収穫もコツがあり、靴底でイガを広げて地道に実った栗を取っていくのだがこれが難しい。収穫した後も虫食いを確認し磨き作業など手間がかかるものの収穫した達成感は心豊かにしてくれる。
姪っ子と甥っ子が大きくなったら栗を拾い、祖父がしてくれたように父と母が見守るのだろう、代々見守ってくれた栗の木もまた教えてくれるに違いない。