◯日田市皿山
黒木嘉津才 ○21歳 ○小野小学校→戸山中学校→日田高校 出身
小袋 杏梓 ○21歳 ○小野小学校→戸山中学校→有田工業高校 出身
小鹿田焼 小袋道明窯の小袋杏梓さんと黒木史人窯の黒木嘉津才さんは共に21歳の若き陶工。子どもの時から一緒だった二人がそれぞれの道を経て家業を継ぎ、今思うことをお伺いしました。
小袋杏梓「僕は中学を卒業して、佐賀の有田工業のセラミック科に進学しました。その後2年間、岐阜県多治見市の多治見市陶磁器意匠研究所という施設でいろんなセラミックの技術などを学び、今年の4月から小鹿田で働き始めました。」
黒木嘉津才「僕は日田高を卒業してすぐに小鹿田に帰ってきたので、今年で三年目です。あんちゃんとは子どもの頃からよく遊んでいたし、中学校も一緒にバスケットボール部でした。でもなんとなく、子どもの頃から有田工業に行きそうだなって思ってた。外に出る雰囲気はめっちゃあったなーと思います。」
小袋杏梓「ほんと?でも実際は日田高か有田工業でぎりぎりまで悩んで…親からはどちらでもいいと言われてたんですが、父親も祖父も有田工業だったので、最終的には自分で決めました。そこでも3年間バスケを続けました。」
黒木嘉津才「僕はなんとなく生徒の男女比がいい感じだなと思って日田高に行って(笑)、バスケ部に入ったけど、めっちゃ厳しくて…辞めてボート部に入ったんです。あんちゃんが同じ学校にいたら、続けられてたかも(笑)。」
小袋杏梓「ははは。ごめん(笑)。でも、なんだかんだ勉強できるし、ボートですごい成績出してなかった?」
黒木嘉津才「一応、インターハイで3位だけど、勉強は全然してないな。」
ヒタスタイル「家業である小鹿田焼の陶工になろうと決めたのはいつですか?」
小袋杏梓「親には好きなことをしてもいいと言われていたけど、セラミックのことを勉強してるうちに、自分は小鹿田に戻って後を継ぐんだって思うようになりました。」
黒木嘉津才「僕も直接親から言われたことはないけど、まぁそういう雰囲気は結構あったと思います(笑)。高校3年の12月頃に友だちが進学の話を始めた時に、自分は親の後を継ぐんだろうなって思いました。そして高校仮卒の時に、初めて窯焼きの手伝いをしました。最初の窯焼きはかなりきつかったです…。スポーツインストラクターに憧れたこともあったし、一年目などは友だちが大学で勉強してるのを見ると、本当に自分はこのままでいいのかっていう葛藤もあったけど、今は自分の仕事として向き合えてると思います。」
小袋杏梓「僕は今年からなので、まだまだ覚えることが多いです。今までは電動ろくろしか使ったことなかったけど小鹿田は蹴ろくろ。ここでは土づくりからもしているし。一番最初は何から始めた?」
黒木嘉津才「特に何をしろとは言われてなかったから、ろくろから。とにかく作りたくて。見よう見まねで、ぐちゃぐちゃになろうと、とにかく作ってみる感じやった。しかも僕、すぐに現状に満足するタイプで(笑)。その時はいい出来だと思ってるんだけど、テレビなどの取材を受けてそれを後から客観的に観ると、全然だめだなーと思ってまた作り直してみたり。父親からはあれしろ、これしろとは言われないけど、作ったものに対して色々言われるのが嫌で、父親が家に帰った後に作業場で一人で作る時間が好きです(笑)。」
小袋杏梓「僕はまだ小鹿田に入ったばっかり。作り方なども含め、色々父や祖父に教えてもらうことはあります。」
黒木嘉津才「えーすごい!。父親以外の人に言われたことは素直に『精進します!』って思えるけど、どうしても父親に言われると、そしてそれが芯をついていればついてるほど反発したくなって…人生三度目の反抗期が来てます(笑)。母親には色々相談もできるんだけど…。」
小袋杏梓「ははは。僕は5年間家を出て、客観的に小鹿田のことを見られた分、父や祖父の続けてきたことを大切にしながらも、全く同じようには出来ないかもしれないけど、自分たちの時代にどう残していくかを考えなきゃいけないんだと思ってます。」
黒木嘉津才「あんちゃんの、そういうところ尊敬する! 今はまだ小鹿田を担っていくなんて大それたことは思ってないけど、自分自身のためにも頑張りたい。お金を稼ぐとか何か賞を取るとかよりも、今はいろんな経験がしたい。そしてどんな注文にも答えられる技術を早く身につけ、成長していきたいです。まだ作ったことのない大物に挑戦したり、時間があれば仕事じゃなくて、自分の好きなものも作ったりしたいなと思ってます。」
小袋杏梓「僕もこの数年間、焼き物をしてきたからこそ出会えた人や知った事がある。そんな経験をもっと沢山して、覚えるべきことを覚えていきたいです。」
Vol.077 UNDER THE SAME SKY
Photo by Cotaro Ishii
Text by Yu Anai