「日田隠し」シリーズ③ 日田の金山
日田の金山を考えるとき、まず注目すべきは、その数の多さです。大分県の資料では、日田には十五カ所もの金山があったとされる。大分県全体に二十カ所ほどの金山があった。日田だけで約七割から四分の三を占めることになる。
日田は、九州でも特に金山が集中し、きわめて特異な土地なのです。江戸時代の日田に、「日田郡金山辺地」 という地域名が出てきます。九州大学の論文に、1682年に松平直矩が日田永山城へ移された際、「日田郡金山辺地(小野筋10カ村)4000石」 が天領として残されたことが記されています。しかし、日田の金山がいつから知られていたのかは、簡単には断定できないですが。表の歴史で有名なのは、明治以降に本格開発され、東洋一とも言われた「鯛生金山」。ただし、金そのものは明治になって突然生まれたわけではなく、山国町の草本金山そして日田の小野にも金山があり、英彦山修験や山の民が、古くから金気のある山を密かに知っていた可能性も想像できる。記録上、日本の産金の始まりは、七四九年の陸奥国の産金とされています。
金とは、単なる飾りではなく、志賀島の金印は王の権威を示し、『魏志倭人伝』に見える卑弥呼への金印もまた、魏の皇帝が倭の女王を認めた証であった。朝鮮半島の新羅に見られる黄金文化も、王権と神聖性を示す光である。金は、神に近づく輝きであり、外交の贈り物であり、交易にも用いられた特別な価値であった。卑弥呼も金の価値は知っていたでしょうね。
だからこそ、権力者は金山を隠し、囲い込み、管理しようとする。金山とは、富の源であると同時に、支配の源でもあったから。日田が江戸時代に天領となり、九州支配の重要拠点となったことも、この視点から見ると意味深い。もちろん、日田が天領になった理由を金山だけに求めることはできないですが、十五カ所もの金山が存在した土地が、幕府直轄地として重視された事実は見過ごせないと密かに思っています。
日田の金山は山に隠され、水に守られ、霧に包まれた日田の地下には、古くから「権威の光」が眠っていた。日田の金とは、鉱物の金であると同時に、歴史の奥に隠された日田そのものの、光だった。


