
ぼくが小さな頃は、共働きの家庭は少なかったし、晩御飯は家族で一緒に食べる「団欒の習慣」があった。今ではどうだろう。気付けば誰もが忙しく働き、家族みんなで一緒に食卓を囲むことも珍しくなったのではないだろうか。その始まりは核家族化だったりもするのだろうが〝こうやって社会はとてもゆっくりと、でも確実に変わっていくのだ〟と言われているような気分になる。しかも、ゆっくりと過ぎるものに、人は気付きにくい。ゆでガエルの法則だ。
そんな社会の中で、家と学校、家と仕事場の往復だけの生活を送っている人が多いことに危機感を感じ、この映画館は日常の第3の場所(サードプレイス)として存在できるよう、会話が活動の中心になるよう心がけてきた。
誰もがそうだが、順風満帆な時には何も気付かない。しかし人生、何が起こるか分からない。例えば、突然学校で嫌なことが起きて行きたくなくなる→家でも誰とも話したくなくなり部屋にこもる→そのまま時が過ぎ、日常になり悪循環に陥る。大人の仕事でもそう。もちろん、そんな中でこそ芸術表現に目覚める人もいるので、一概には言えないが(ぼくが出会った中での多くは創作意欲よりも、現実逃避だと感じることが多かった)。家族や友人に何でも話せる信頼関係を築けていないというか、大切なことを共有できるからこそ家族や友人なのではないだろうか。SNSで繋がっているのに、孤独感も強くなっている問題もまさに同じ構造だろう。
そう思うと、繋がること(接続)と心が満たされる感覚(関係)には、大きな違いがあると分かる。誰かと接続するだけでは、心は満たされず、むしろ孤独感が強くなる。人は、承認欲求や比較してしまう生き物だからこそ。しかもそれがオンラインだと、現実に戻ったギャップを、日々の瞬間瞬間に感じることになってしまい、孤独感が増幅するのかもしれない。
以前にスクールの語源について書いたが、人生には余白が大切。オフラインで、その時間を有意義に過ごせればいいだけ。「いいね!」の数より、行きつけの場所の店員さんとの挨拶の方が、よっぽど暮らしの安心感を生むのではないか。この映画館がそうなれるかは分からないが、映画(や芸術)はまさにその場所だ。誰もがそんな場所を日常に持てれば、きっと人生を、人を信じられるようになる。と、そう信じて今日も映画館でいろんな人と会話している。


