日常を大切にしたいと常々思いながらも、この日常自体が激変している。だからこそ映画を観て(社会を観察し)、川や山の声も聞きながら日田で暮らしているのだが、映画館を営んでいると、今でも〝好きなことが仕事で羨ましい〟といった声を耳にする。その度に、必ずしもそうではない自分を見るはめになる。もちろん、映画や音楽、芸術は好き。さらに、迷っていた時に生きる術をたくさん教えてくれ恩すら感じているが、ぼくの立場からするとすでに観終わっている映画を上映しているわけで、好きというより、みなさんと〝シェア〟するという想いの方が強い。まず「分かち合うことから始める」ことを軸に活動しているのだ。だから、単に好きなこととだけ括(くく)られると違和感が生まれてくるのかもしれない。自分が好きなだけのものは自分の部屋で思う存分にやればいい。でもそれが人様にも伝えたい、伝えなければならないものであれば、それをどうやって人様に伝えていけばいいのか考え始めるはず。その時に、また映画や芸術がチカラになってくれるし、誰かと相談したりするはず。そう、また「分かち合う」ことに戻ってくるのだ。なので「いかに分かち合ったか」が結果より大切。しかも、イベントだけでは非日常の花火にしかならない。それでは今この瞬間、何かに興味を持ったり、心が落ちたりした人は路頭に迷ってしまう。だからこそ絶えず流れる三隈川や神社のような場所として存在できれば、と想い営んでいる(これもエゴかもしれないが)。ぼく自身、いつも三隈川や神社に行くし、ぼくにとっては尊敬する先輩みたいな存在でもあるのだろう。
太古の昔から三隈川や神社は、みんなにとってお金では計り知れない大きな価値だったが、今はどうだろう。そのお金自体も、皆が信じて成り立つ不思議な世界。そう分かってはいても、今は分かりやすい価値がお金。いずれ、価値を別の指標で測れるようになったらお金自体も無くなるのだろうが、今はまだそこまでいってない(とはいえ、甥っ子の奨学金の保証人にもなれないほどの貧乏暮らしはもう卒業しないといけないと誓ったばかり)。
…などという、とりとめない考えも、こうやって「分かち合う」ことから新しい未来が生まれてくるのかもしれない。だから「分かち合うこと」は、変わりゆく世の中で、変わらない光なのだと思う。