戦争を経験した少女時代。
「戦後から今日までに、手に入るものや、食生活の変化などによって日本人の体質も大きく変わってきました。栄養士として常に勉強が必要だなと思っています。私も戦後の食糧難を経験しました。母が着物を売ってお米を買っていた時代。畑の芋をそのままかじったりもしていました。佐賀の国民学校2年生の夏に終戦を迎えました。戦時中のある日、クラスで落穂拾いに行ったのですが、私は気分が悪くて先に家に帰った日でした。学校では生徒5人分のお弁当が空になっていたそうで真っ先に私が疑われました。当時はお弁当を持ってくる子と持ってこれない子がいましたから。うちも父は出征中で家は母と子どもだけだったからでしょうか。先生に天皇陛下の奉安殿の前に座らせられて問い詰められたことがとても悔しかったです。結局はクラスの男の子たちが食べたらしいんです。まずこんな小さい体でお弁当5個は食べられませんよね(笑)。戦後父が生きて帰ってくることができ、故郷の大山町へ。その後淡窓町に家族で住みました。高校3年生の時、5人姉妹の長女である私は父に『今の時代は女子でも短大くらい行ってもいい』と言われ、栄養士コースのある別府大学短期大学部へ進学しました。栄養士の免許を取り、日田へ帰ったら栄養士として病院に就職したいと思い履歴書まで準備していた矢先に、親戚から結婚のお話をいただき、迷いましたが私は主婦となることを選びました。」
栄養士の活動と郷土料理
「子育てをしながら、日田市生活学校(全国生活学校連絡協議会)の活動を始め、環境問題や食を通じた子どもの居場所づくりなどに取り組みました。そして子どもが小学校を卒業した頃、保健所が作る在宅栄養士会への加入の依頼を受け、栄養士の資格を持つ20名程が集まり、勉強会をしたり、赤ちゃんの健診のお手伝いをしたり、料理教室をしたりして栄養士としての指導の仕方も覚えていきました。そのような活動をしていたことから、日田の郷土料理でもある『盆だら』づくりの取材などの話も多く入ってくるようになりました。でもたらおさって下準備が大変でしょう?取材や教室が入るとたらおさを仕入れて前々日から水で戻しますからね。私の子どもの頃は乾物屋さんに店頭にたらおさが吊るされてるのをよく見ました。私の父も食べていたと言っていたので、大正時代には食べられていたのではないかと思います。海の無いこの地域では貴重な蛋白源だったんでしょう。私はたらおさよりも鶏の足「もみじ」の方が記憶にあります。ハレの日のご馳走として、ニワトリ戸舎(どや)から飼っている鶏をつぶしてがめ煮にしたりするんですけど、その時に2本の足も一緒に煮込んで食べるんです。たった2本の足はとても貴重で、足があると言うことは新鮮な鶏肉であるという証だったと思います。」
こども食堂オープン
「長年、子ども食堂をやりたいと思い、コロナ禍にお弁当やおぜんざいを作って学童保育に持って行ったりしていた頃、商工会議所青年部の門田康弘さん(やっちゃん)に出会いました。彼も鍵っ子だった子どもの頃に寂しい食事をした経験があり、子どもたちの為に子ども食堂がやりたい!と意気投合し、令和5年5月5日の子どもの日に『ひたこども食堂inやっちゃん家』をスタート。淡窓町の自治会や地域の方の協力を得ながら、現在は毎月第2土曜日に淡窓町公民館で開催しています。今月は社会福祉協議会の方からパプリカをいただいたので、それを使ったメニューを考えました。最初は肉詰めにしようと思ったのですが、新鮮で肉厚なパプリカをそのまま美味しく食べて欲しいと思い、お肉はメインのひやしうどんに使っているのでシーチキンを使って肉じゃが風を作り、パプリカに乗せて食べてもらいました。子どもたちには寂しい思いをしながら偏った食事をしないで欲しい。私も一人暮らしなので一緒に作って一緒に食べられる機会があることはとても嬉しいです。私が考えるものは家庭料理。地産地消を心がけ、栄養バランスの取れた食事をすることを大切にしています。何でも手に入るこの時代に何を選ぶかが大切です。この場所で食を通して世代間の交流ができ、お互いに助け合える場所を提供することで、みなさんのお役に立てればと思っています。」
Vol.82 UNDER THE SAME SKY
Photo by Cotaro Ishii
Text by Yu Anai