咸宜園を世界遺産に 広瀬淡窓先生の「道」
淡窓先生は、儒学者・教育者・漢詩人であり、十六歳の時に福岡の亀井塾に入門しましたが大病を患い、わずか三年で日田に帰りました。妹のアリ(秋子)の看病により命をとりとめ、医師の倉重湊の「学問教授は天命だ。それで身が立たぬなら飢え死にするまでだ」の言葉によって家督を弟の久兵衛に譲って学問の道に進みました。そして二十四歳の時に、塾を始めます。
淡窓は、「三奪の法」(年齢・学歴・身分を問わず横一線で学ぶ)、月旦評(成績の公表)、分職(全員に仕事を分担)など、「個人の努力」と「人格形成」を重視した教育を実践しました。また、日々善行を積み重ねることを人生の目標とし、「一万善」に取り組みました。この方針は「人生は習慣の織物」という言葉にも表れており、日々の積み重ねが人格を形作ると自ら証明しています。さらに、広瀬淡窓は「敬天思想」を提唱し、天(自然や宇宙の理)を敬い、善行を積むことを人生の指針としました。これは、西郷隆盛の「敬天愛人」にも影響を与えたとされています。
咸宜園の意味は、咸宜園の「咸宜」という言葉は、中国最古の詩集『詩経』に由来し、「ことごとくよろし」つまり「すべてのことがよろしい」という意味です。この名称には、誰もが等しく認められ、すべてを肯定するという理念が込められています。実際、淡窓は、身分や年齢、学歴を問わず、すべての門下生を平等に扱い、それぞれの意思や個性を尊重する教育方針を採用しました。
咸宜園は幕末から明治にかけて日本最大規模の私塾となりました。咸宜園の教育の「道」は、自由で主体的な学び、平等主義、そして個性相互の尊重にあります。一人ひとりの違いを活かし、主体性を伸ばすことが重要だという教訓につながっています。淡窓は純粋に理想の教育の「道」を実践し政治には無縁で純粋な人間としての生き方でした。これこそ、日田が世界に誇れる未来への「道」であり、今迎えている大きな変革の時に、未来を輝かせる日本人として日田人としての「道」だと確信しています。これこそ世界遺産です。